五泊六日の大連・旅順(4)最終回

東鶏冠山北堡塁


203高地  当時の日本軍は、旅順港内のロシア艦隊の位置を把握し、的確な砲撃をする為、多くの犠牲をはらいながら203高地を奪取した。戦争当時の写真を見ると樹木が無い荒涼とした禿山だが、現在は木が鬱蒼と茂っていて、激戦地だった面影はない。山頂に着いてみると、確かに旅順湾全体が良く眺望できる。ここには当時日本によって建てられた銃弾型の「爾霊山碑」ある。百年以上経った今でも何かを訴えているかのように空に向かい、直立不動の姿勢を続けている。

203高地
画像:楊坤編『旅順・日俄戦争』より転載


東鶏冠山北堡塁  ロシアが築いた強固な要塞跡だ。ここも当時の激戦地で、壁には無数の弾痕が見られる。そして日本側による記念碑が建っている。石に刻まれた大正時代の碑文、幾分破損されているが、全文は十分に読み取れる。「明治三十七年八月以来…」。明治37年は西暦1904年、中国は清朝末期である。今回は激動の時代の、その現場を訪れた。僕が死ぬ日までに再度訪れる機会はあるだろうか。それは不明である。

五泊六日の大連・旅順(3)


旅順へは、大連駅北広場から出ているバスに乗る。バス券は乗り場近くの小屋で買い、その後バス停で列に並ぶ。乗り込んでからしばらくバスに揺られていると、やがて海が見え、かすかに磯の香りもしてきた。

(注)上図: 毎日新聞社『一億人の昭和史 日本の戦史 ⑴日清・日露戦争』より

ホテルは高台にあり、部屋からは旅順港が一望できる。
あのあたりに船が沈没したのか・・・。
缶ビールを飲みながら感慨深く眺める。
そして「旅順口閉塞作戦」で亡くなった広瀬さんの歌を口ずさむ。


港を近くで見るため、ホテル最寄りのバス停「勝利塔」から 「海岸遊園」へ向かう。公園の近くには「旅順駅」があるので立ち寄る。古い木造のロシア風建築だ(1900年竣工)。その形や色彩は個性的で愛らしく、記憶に残る存在感である。路線は数年前に廃止され駅舎も使われていない。

港公園に着いたのは夕暮れ時で、辺り一面、こがね色に染まってた。波は穏やかで、この海に散った多くの魂も、今は静かな眠りについているようだ・・・。

夜、ホテルの部屋で、ビリビリくる大連陳醸を飲みながら港を眺める。
ほのかな月明りと町明かりによって、港の輪郭がかすかに確認できる。
明日の朝は、明るい港の姿を眺めるのが楽しみである。