【保存版】信州狂人式「善光寺参り」③本堂とその周辺

前回は山門まで来た。今回はその先にある最終エリア:本堂とその周辺を散策しよう。ただ腹が減っては観光どころではない。そば屋さんは至る所にあるので、適当な店に入り酒とざるそばを注文する…

小学生の頃はここにやって来ると、佛足の上に自分の素足をのせて遊んだものだ。バチが当たったのか、今では変なおじさんになってしまった…

 佐藤兄弟については、代表して兄の佐藤継信をWikipediaより引用する。

佐藤 継信(さとう つぐのぶ)は、平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王に数えられる。奥州藤原氏の家臣・佐藤基治の子。(中略)治承4年(1180年)、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行。義経の郎党として平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死にした。

小学生の頃ここに来ると、この石の車輪を意味も分からずにグルグルと勢いよく回したものだ… バチが当たったのか、今は脳みそスカスカのピーマン状態となった…

親鸞については、デジタル大辞泉より引用する。

[1173~1263]鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。日野有範(ひのありのり)の子。比叡山で天台宗などを学び、29歳のとき法然に師事し、他力教に帰した。師の法難に連座して越後に流され、ここで恵信尼と結婚し、善鸞と覚信尼をもうけた。のち、許されて常陸(ひたち)・信濃(しなの)・下野(しもつけ)などを教化(きょうけ)し、浄土真宗を開き、阿弥陀による万人救済を説いた。著「教行信証」「愚禿鈔」など。諡号(しごう)は見真大師。

処刑された人たちの供養塔。表面の赤色は彼らの鮮血を表しているのか・・・ 恨血千年土中碧、彼らの恨みはやがて碧玉に変ずる・・・ 

 真田家の「六文銭」がはっきり見えますね…

 高尾太夫についてはWikipediaから引用する。

高尾太夫(たかおだゆう)は、吉原の太夫の筆頭ともいえる源氏名。高尾太夫は、吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前で、吉野太夫・夕霧太夫と共に三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。三浦屋に伝わる大名跡であった。何代目まで続いたかは、諸説があって判然としておらず、6代説・7代説・9代説・11代説の4説がある。

山門に戻ってきた。ここで私の善光寺案内も終了。お疲れさまでした。ただそば屋さんの紹介が足りなかった気がする。そこで次の最終編「④そば屋さん他」では私が気に入った店を紹介する。

【保存版】信州狂人式「善光寺参り」②善光寺交差点~山門

  山門の額「善光寺」。3文字の中に5羽の鳩が隠れているという…

今回は善光寺交差点からのスタート。交差点からは仁王門が見える。小学生の時、水彩画の写生大会が何度か善光寺境内で行われたが、ある時自分は仁王像の足一本をクローズアップして描いたことがある。多くの学生は仁王像や建物の全体を描いていたので、その時に自分が変な癖のある人間だと自覚した。

   再游善光寺
 曾従先師游此地 回首悠悠二十年 門前流水屋後嶺 風光猶似昔日妍  良寛

牛に引かれて善光寺参り。そんな牛さんも、今はメンチや肉巻きにされてしまった・・・。 これは信心なく欲深い老婆の呪いか!?😲・・・

地獄界の地蔵菩薩。確かにこのお地蔵さんだけが片足を出していますね…

長い肩書きの後に「呉興閔鶚元」とある。呉興は浙江省湖州市の古称なので、この扁額は湖州出身の閔鶚元による揮毫だということが分かる。閔鶚元については百度百科から引用。気になったのは額に記されているまさにその年(1790)、閔さんは管理不行き届きの罪で罷免、自身は高齢を理由に引退を願い出たという点だ。人生いつ何が起きるかわ分かりませんね…

闵鹗元(?-1797年),字少仪,号峙庭。浙江省湖州府归安县 (今浙江省湖州市)织里镇晟舍人。清代名宦,历官布政使、巡抚。―中略― 乾隆五十五年(1790)以失察罪被革职,请求告老,次年致仕奉旨回原籍。嘉庆二年(1797)逝世。

山門の二階から表参道を南方向に眺める。今回はここまで…