一泊二日の依蘭(中)2023.04.15

依蘭に到着した一日目は、前回第一篇で述べたことに加え、今回述べる「依蘭博物館」とテーマパーク「五国頭城」を訪れた。パークには多少の不満を感じたが、他では概ね充実した時間を過ごせたので満足の一日であった。

依蘭博物館  この地の歴史は長く展示物も石器時代から始まり現代に至る。ただ今回は金代、それも特に「五国頭城遺跡」からの出土品に絞って紹介する。それは今回依蘭に来たきっかけが宋の徽宗が崩御した場所が当時依蘭にあった「五国頭城」(別名「五国城」)だったからである。ちなみに「依蘭」という地名が行政区画名として使われ始めたのは展示資料によると清末の1906年に「依蘭府」が設置されて以降のようだ。


五国頭城遺跡について  遼・金の時代に「五国頭城」があった。館内には遺跡の位置を示す地図が展示されていたが、地図が少し古く分かりずらいので百度地図を転載・編集して再確認した。赤線で四角く囲った部分が遺跡のおおよその範囲、丸で囲んだ部分は2003年から建設が始まったテーマパーク「五国頭城」である。パークは遺跡から少し離れた場所に建設されたことが見て取れる。

百度地図より転載・編集

徽宗と欽宗  北宋末の皇帝・徽宗と欽宗は時期は異なるが共に五国頭城で崩御した。それは「靖康の変」に関係する。1127年、金軍によって北宋の都・汴京は陥落、徽欽ニ帝とその他多くの関係者が捕らえられ北方に連れ去られ北宋が滅亡したという事件だ。以前にTVドラマ「精忠岳飛」を見ていたらその頃の状況が比較的詳細に描写されていたので依蘭という地に関心を持つようになった。特に金人の用いた投降儀式「牽羊礼」の場面は生々しく、裸にされてから四つ這いになり羊の皮を被せられるというものだ。ドラマでは二皇帝は肌着を付けているが一般的には全て脱がされるため、特に女性の場合は屈辱に耐えられず多くがその後自殺したという。それとは別に現在私は草書千字文を練習しているが、徽宗の草書千字文に魅力を感じ臨書用テキストとして利用している。そのようなこともあり以前から徽宗趙佶さんには何か気になるところがあったのだ。

上下画像:金人による「牽羊礼」(TVドラマ「精忠岳飛」より転載)
「坐井観天」の場面。中央左が欽宗、座り込んでいるのが徽宗 
徽宗が崩御する場面(TVドラマ「精忠岳飛」より転載)


五国頭城遺跡からの出土品  遺跡からは金代の鉄器や銅鏡が多く発掘されたという。鉄器は武器の他に農具や生活用具が多く展示されていた。当時は鉄器の使用が一般的だったということだろう。

青磚(五国城遺跡出土)


銅鏡には様々なデザインや図柄があるが、それらを見ていると当時の人たちの美的感覚や嗜好、文化程度等いろいろ想像することができて面白い。


テーマパーク・五国頭城  実際の五国頭城はとっくに存在せず、土盛りの城壁が部分的に存在するのみである。私も実際に城壁を見学したが、その時撮影した画像は次回第三篇で紹介する。チケットの説明によると、パークは2003年から建設が始まったがその後開園されることなく時が過ぎ、2017年に県政府の投資により修繕拡大工事が行われて開園に至ったという。最初は多少期待していたが、実際に見てみると失望の二字、建物や展示物の作りは粗末で管理不足か壊れたまま放置されている部分が多く幽霊屋敷のようだった。また営業時間中にスタッフがゴミ焼きをしているのも問題だと思う。ただ「石刻芸術展区」や発掘品の展示コーナー(博物館の展示物と重複するので画像は割愛)は歴史を感じられて楽しめた。


石刻芸術展区  パークの多くの部分には失望したが、石刻展示エリアは清朝以後の新しい時代のものではあるが歴史を感じられた。説明によると、これらの石碑は文化大革命で破壊され牡丹江公路大橋の橋脚用材に使われていたが、その後重要性が認められ回収されたのだという。これらを見て入場料20元を払った甲斐も少しはあったなと感じた。


その後あずまや(亭)で少し休憩してからパークを離れ、街の中心部にあるデパートで靴下、スーパーで酒と食品を買ってホテルに戻った。よく歩いた一日、足に痛みを感じる。シャワーを浴びスッキリしてから夜は酒と好きなTVドラマで依蘭での夜を楽しむ。はぁ~、お疲れ様でした・・・。

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