【二日目】前篇に続く。正定古城の「開元寺」「北城門遺跡」「南城門」について述べる。
開元寺 東魏の創建というからこれまた歴史ある寺に来たという印象だ。寺のシンボル「須弥塔」は唐代の建立で、西安の大雁塔に似ている。明代に大改修したが唐の様式をよく残しているというから大変貴重である。下層の四隅には石刻の力士像がはめ込まれており、それぞれが違った表情をしていて面白い。境内の様々な位置から須弥塔を眺めていると何か唐の時代にタイムスリップしたような感じがする。
鐘楼 中国に現存する唯一の唐代の鐘楼というから非常に貴重である。吊るされている鐘も唐代の物というが、近くで見えないのが残念だ。
巨大な石碑 石碑は三つの分部に分けて展示されている。 ①残碑(砕けた碑身)、②蟠龍碑首(碑上部の龍模様の石刻)、③贔屓碑座(亀趺。贔屓は亀に似た想像上の神獣)。亀はとにかく巨大で、私が今まで見た古代の亀趺の中では最大級。重さは107tというから驚きだ。その他、当時の発見状況や発掘作業の経緯、専門家による考証等の説明パネルもあり、以下にその一部を要約する。
☘発見時期・場所について
この巨大な亀は2000年6月、開元寺からほど近い常山影劇院の西側付近・府門街の建設現場地下約1.5m地点で発見された。
☘建立時期について
碑面の「明宗皇帝」等の文字と、北宋の欧陽脩が当地を訪れた際の記録を含む『集古録目』にこの巨大碑の記述がないことから、建立は五代後唐明宗皇帝の即位(926年)以後で、欧陽脩の来訪(1044年)以前に棄損され埋められたと考えられる。
☘建立者について
碑面の氏名や官職は削られて不明だが、後晋天福2年(937)に成徳軍節度使となった「安重栄」と考えられる。天福7年(942)、彼は帝位簒奪に失敗し処刑された。当時、後梁・後唐・後晋と節度使が次々と皇帝に変身したが、その状況を安重栄も実際に見てきて簒奪の野望を抱いたのだと考えられる。そして処刑後に石碑も破壊され埋められたということだ。
北城門遺跡 比較的大きな城内門と小ぶりな月城門の二つが残る。城内門はどっしりと重厚感があり立派である。月城門は損壊が激しかったのか規模は小さいが、それでも趣きがある。ただ南城門のように城壁が完備され規模も大きく楼閣も復原され華やかさがあるのに比べるとかなり地味だ。そうなると観光客にも人気がないのか、私が訪れた時も辺りはひっそりとしていた。まぁそのほうが自分としては落ち着いて見学できるので悪くはないが・・・。
南城門のライトアップ 初日は日暮れ前に城門を離れてホテルに向かったが、この日はガイドブックにも写真が紹介されていて人気があるライトアップを見に来た。国慶節の連休中なのでかなり多くの人々でにぎわっていた。ライトで照らされた巨大な門と楼閣、城壁のシルエットは確かに美しくまた迫力もあり一見の価値はある。楼閣から見える城内全体の風景もたいへん印象的であった。
さてさて二日間の正定古城の観光もこれで終了、翌日は列車で平遥古城へ向かう。