三泊四日の山海関(4)最終回


山海関の二日目、老龍頭から古城に戻り、西門・迎恩楼と南門・望洋楼などを見学後、「王家大院」に向かう。到着時刻は午後3時半、この日観光する最後の場所である。

王家大院(山海関民俗博物館)  現地の説明によると、建物は明末清初の創建、咸豊年間に繁栄し光緒年間には「万里長城第一家」と称されるほどの豪商になっていたという。邸内を見て回ると現在は全体的に劣化が進みホコリっぽくすすけている。また別名が民族博物館なので本来王家とは関係のない文物が収蔵されているかもしれない。ただ建物の装飾を見ると確かに当時は隆盛を極めていたのだろうと充分想像できる。なおガイドさんによれば、王家の皆さんは現在海外に暮らしているという。清代の富豪も中華民国、中華人民共和国と社会が大きく変わる中で大変苦労したのだろう。

☘謎!林則徐の書  ある部屋でガイドさんが「これは林則徐の書です」と説明してくれた。それを見ると縦40㎝、横20㎝くらいの額装で、落款は「丙子(1816年)秋暮 少穆・則徐」と読める。またガイドさんは林則徐がこの邸宅に来たこともあると言っていたが、現地に詳しい解説文はなかった。後日、詩文の内容や林則徐と山海関の関係についてネットで少し調べたが何も分からず謎は深まるばかりだ。まぁまた時間がある時に調べ直してみよう・・・。

☘陳圓圓の部屋  敷地内に呉三桂の側室・陳圓圓の建物がある。一時期ここで呉三桂と住んでいたという。そして陳さんが使用していたという家具や雑貨も展示されている。
部屋の入口には「慟哭六軍倶縞素、衝冠一怒為紅顔」の文章が対で掛けてある。これは呉偉業の詩『圓圓曲』の一部。一般的な解釈は、李自成によって北京が陥落し崇禎帝も自殺したと聞いた呉三桂は「慟哭して全軍を喪服にさせたが、それは陳圓圓の為に激怒したからだ」というのもの。この詩に呉三桂を責める意が含まれているのかどうか、またこの話の史実的な真偽も不明だ。つまり呉三桂と陳圓圓に関する事柄については謎が多いのだ・・・。


王家の観光も終了、後はホテルへ戻って食事をするだけだ。帰り道、この日もまたきれいな夕日を見ることができた。鐘鼓楼から西に伸びる西大街のちょうど直線上に夕日が落ちていく。日の輝きと空のグラデーション、鐘鼓楼と街並のシルエットが美しい。明清当時の人たちも同じような景色を眺めていたのであろう。古い街並の保全には色々不便も伴うだろうが、この美しい夕日を見るとそれも悪いことではないと感じる。


山海関古城で最後の夕食。この日もルームサービスを利用した。前日は三品注文したが多すぎたので、この日は「黄魚料理」を一品だけ注文した。酒は老龍頭からの帰りにスーパーで買った古越龍山の紹興酒(八年陳)。黄魚は中国ではお馴染みの魚で、スーパーでも普通に販売している。自身も何度か食べたことがあるおいしい白身魚だ。今回も実際に食べてみるとフカフカ・トロトロして美味だ。
さて後日、その時渡されたレシートを見てみると料理名は「鶏汁拉菲大黄魚」(黄魚のチキンソース煮)とある。おや「拉菲大黄魚」?! 何か普通に売っている黄魚と違う種類の魚のようだ。ネットで調べてみると「ブラジル黄魚」の俗称で南米海域で水揚げされ、生息環境が南シナ海と似ているため味も南シナ海産黄魚に近いという。ただ疑問点として黄魚はこの時季も町の海鮮市場やスーパーで普通に売っているのに、なぜわざわざ拉菲黄魚を使用したのか。可能性として一つ目は、旅行閑散期のため鮮魚の仕入を少なくし、突然の注文には便利な冷凍黄魚で対応するという理由。二つ目は、「拉菲大黄魚」とあるが実は普通の黄魚で、ただネーミングに特別感を付加させたいという理由。真実は不明である・・・。まぁ次回何か注文する際はスタッフによく確認したり、場合によってはレストランの厨房へ行って現物を確認することにしよう。


【四日目】最終日、哈爾賓に帰る日だ。最後は鐘鼓楼の下を通り東門の前を右折して両者に別れのあいさつをする。その後は駅に向かって南下。途中古い建物があったので撮影した。しばらく歩くと四つの大きなアーチがある城門が現れ、そこから古城を出る。城門前の広い「蓮花湖公園」を通り抜けるとそこは駅だ。発車時刻まで時間があったので公園の水辺で少し休む。滞在期間は短かったが、山や海、歴史遺産と色々楽しむことができて非常に満足した。また別の季節にも来てみたいと思う。

山海関駅から高速鉄道G1261に乗り5時間、哈爾濵に到着。辺りはすでに暗く駅舎のライトアップがきれいだ。徒歩で帰宅する途中、人々でにぎわうソフィア大聖堂の前を通る。ここまで来るとホッとして気が楽になる。家まであともう少し、旅の余韻を感じながら歩いて行こう・・・。