八泊九日の石家荘・平遥・太原(5)2023.09.29


【四日目】平遥の二日目。この日は主に城内の古い屋敷を見学する。平遥は観光スポットが多く今回の滞在期間中に全てを見ることはできない。そこで旅館主人に薦められた場所を参考に選んだ。朝は先ずインスタント麺・白象「粉麺菜蛋(骨湯麻辣燙味)」を食べる。この製品の面白いところは、小麦「麺」と澱粉「粉」(ハルサメ)の二種類が入っていること。茶葉蛋(茶葉ゆで卵)が付いているのもイイ感じだ。そして出発、気に入った古い町並みや建物を撮影しながら歩いた。この日の見学場所とその順番は以下の通り。
 1.天吉祥博物館(商社「長盛蔚」旧跡)
 2.市楼(金井楼)
 3.同興公鏢局博物館(運送会社「同興公鏢局」旧跡)
 4.百川通晋商家俬博物館(両替商「百川通票号」旧跡)
 5.平遥県衙博物館(役所「平遥県衙」旧跡)


1.天吉祥博物館
清代の有名な商行(商社)「長盛蔚」の屋敷跡。HPによると屋敷は明代築。当時、中国各地およびロシアなど海外にも支店を有していたという。ここで印象に残ったのは明代の皇宮献上用の大きな酒甕、清代の木彫「九龍壁」、そして光緒26年(1900)8月建立の慈禧太后(西太后)の祈願による「平安」碑。1900年8月と言えば、八カ国連合軍が北京紫禁城に迫り、西太后が光緒帝を連れて紫禁城を離れ西安へ向けて逃亡生活を始めた時期だ。西太后は平遥にも滞在したというが、この石碑もそれと何か関係があるのだろう。


2.市楼(金井楼)
城内のほぼ中心部辺りにある平遥古城のシンボル的な楼閣。百度百科によると創建年代は不明、清・康熙27年(1688)に修築されたという。平遥の道はほとんど直線なので、その美しい高楼は比較的離れた道の端からも確認できる。楼の見える風景は古城の独特な雰囲気を更に深め、また旅人にとっては自分の居場所が即座に確認できて安心感を与えてくれる。


3.同興公鏢局博物館
運送業者「同興公」の屋敷跡。百度百科によると、創始者は全国的に有名な武術家・王正清。当時は山賊など治安の問題が存在していたので、武術を身に付け武装した鏢師(用心棒)が顧客の貨物を護送した。同興公は1900年に西太后が西安へ逃亡する際の金品輸送を担当し、任務完了後に西太后から「奉旨議叙」の額を賜った。実は翌日にも別の鏢局関連の屋敷も見学したが、当時は運送業の需要が多かったのだろう。


4.百川通晋商家俬博物館
百川通票号の屋敷跡。「票号」は両替商(旧時の銀行)のこと。百度百科によると、当時は全国でも有力な票号の一つで、全国各地に約30か所の支所を有していたという。さてここだけでなく他に見学した屋敷でも面白いなと感じたのは「地下金庫」。一階の部屋の床に地下金庫に通じる四角い穴が設置されているので、受領した金品を地下に瞬時に収納できるので確かに便利かつ安全だ。


5.平遥県衙博物館
旧時の平遥県役場跡で、裁判所の機能も有していた。城内では比較的広い敷地を有し、現在は博物館として整備され見所も多く、観光客の人気スポットである。特に印象に残っているのは、「大堂」(法廷)と「牢獄」。それらは中国の歴史ドラマを見ていると時々登場するので馴染みはあるが、古い実物を見たのは初めて。それに付随して囚人移送車や首枷、足に付ける鉄丸、また別の場所には拷問用具、処刑用具なども多数展示されている。その他、元代建築の「大仙楼」も見逃せない。


☘大仙楼  元・至正6年(1346)の創建、県衙旧跡の中で一番古い建物だ。入口の大門から見て敷地の一番奥に位置する。城内には明・清代の建物は多く見るが、元代のもの少なく貴重で、平遥古城の歴史の長さを感じさせる。


☘大堂  主に法廷として使われた。正面の海に昇る赤い太陽の絵が印象的である。ふと床を見ると材質の異なる石板が二枚はめ込まれており、表面には複数のくぼみがある。ネットで調べたところ、それらは「跪石」と言い、一つは原告、もう一つは被告が跪くとのこと。

さて大堂に向かって左に隣接する部屋の前に気になる石碑を発見、読むと当時の困った社会状況が目に浮かぶようで面白い。
向かって右の一つは、民国11年(1922年)、平遥県知事・呉潔己の建立。
 「喫煙・纏足・賭博、民生三害、非改了不可」
 (阿片吸引・纏足・賭博は人民生活にとっての三害であり、止めなければならない)
左の一つは、山西督軍兼省長・閻錫山の建立。
 「貪官汚吏・劣紳・土棍、為人群之大害、依法律的手続非除了他不可」
 (腐敗役人・劣悪紳士・ごろつきは民衆にとって大きな害であり、法律手続に
  依って排除しなければならない)

☘牢獄  入口を入ると見える正面の壁に書かれた大きな「獄」の字が印象的だ。現地の説明によると、ここは中国で唯一現存する清代の牢獄で、当時は水牢もあったが既に取り壊されて今は無い。その後1960年代まで牢獄として使用されていたと知って少し驚いた。かつて囚人としてこの牢獄で過ごしたことのある人がまだこの世にいる可能性が高いということだ。

☘拷問・処刑用具  多数の道具が展示されていたが、それらの多くは一目見ておぞましく感じ、使用場面を想像すると気分が悪くなる。ここまで残酷になれるのは人間の本質なのだろうか。現在も世界各地で生じる残虐行為がメディアで頻繁に報道されるが、悲しいかな人の本質は長い時が経ても変わらないようである。


さてさて、年をとっても欲張り癖は治らず、この日も多くの観光スポットを精力的に見て回ったので結構疲れた。旅館に戻り主人が経営する土産店で大甕に入った量り売りの白酒を購入、グビグビ飲んで疲れをいやす。確かに美味い酒だ。店の前は西大街、通りは照明がキラキラ輝き、行き交う人々でにぎわっている。この夜、気分が大いに盛り上がり調子付いて飲み過ぎてしまった。久々に見事な千鳥足になり、真っすぐ歩けないのが自分でも認識できる。店の内外でフラフラしていると旅館の主人にそろそろ部屋で休むように言われ、素直に戻って寝た。まぁまぁ世界遺産の平遥古城で痛飲できて今ではいい思い出になっている・・・。

八泊九日の石家荘・平遥・太原(4)2023.09.29


【三日目】朝、ホテルの部屋でインスタントの今麦郎「山西刀削麺」を食べてから出発する。バスで石家荘北駅へ行き、列車(二等寝台三段目・硬卧上铺)で太原まで行き,別の列車(硬座)に乗り換えて平遥に向かう。今回は大型連休なので直通列車の切符が買えなかったのだ。
さて山西省にある平遥は明代の城壁がほぼ完全に残っていることで有名な観光地だ。世界遺産にも指定されている。自分もかなり以前から行きたいと思っていたが、今回ようやくその機会を得た。


平遥駅に到着  古城の最寄りの城門「鳳儀門」までは徒歩約10分。城の周囲は市街地が広がり、駅から直接城壁は見えない。しばらく歩いていると突如道の奥に城壁が見えた。あれが平遥古城か! 確かに存在感は抜群である。先にスーパーで買い物してから城門前で入城料を払い、やっと中に足を踏み入れた。先ずは予約してある旅館「源隆客桟」へ向かう。
旅館に到着、手続き後に部屋へ案内される。主人は土産店も経営していて、部屋の出入りには土産店の中を通ることになる(その後、外に出る別の通用口を発見)。土産店は明代の建築物だが、宿泊用の建物は70年代に古代様式を真似て建てたものだという。
部屋に荷を下ろし、中庭で少し休憩する。慣れない土地を朝から次々と移動してきたので少々疲れた。旅館で買った地元ビールと、来る途中のスーパーで買った白酒を飲む。すると元気が徐々に回復、そこで城内の散策に出かけることにした。


城壁の上を歩く  宿を出たのが午後5時半、日が暮れはじめて辺りは次第に薄暗くなってきた。宿から近い「鳳儀門(下西門)」から城壁を上る。上から見る景色は格別、城内は高いビルなどの視界を遮るものがないので、かなり遠くまで見通せる。途中写真をパチパチ撮りながら全城壁の約1/3の距離を反時計回りに45分くらい歩くと「迎薫門(南門)」に到着した。すると係員さんが城壁の上はまもなく見学終了時間になると言うので、地上に下りて城内の散策を始めた。


城内の散策  日が暮れた城内のメインストリートは旅館や商店の電飾で明るく輝き、予想はしていたがかなり多くの観光客でにぎわっていた。ただ問題も起きた。城の中心にある「市楼」の南約150mの地点で、人々が道の両方向から殺到、異常に混雑し危険な状況が発生していた。自身もその近くにいて、2022年10月に起きた韓国ソウルの雑踏事故を思い出し緊張した。実は今回の滞在中に同じ場所で2度雑踏に巻き込まれ、1度目は来た道を戻り人の少ない脇道へ回避した。2度目は雑踏の中で前後左右から人の圧力を感じ、将棋倒しにならないかとヒヤヒヤしながらもゆっくり進み、何とか混雑地点を通り過ぎた。ただ後で冷静になると、危険を感じたら引き返す勇気が必要だったと大いに反省した。何か起きてからでは手遅れなのである。それ以外の場所は人は多いが危険を感じるほどではなく、普通に夜の町の景色を楽しむことができた。


平遥古城には数多くの飲食店が存在するが、観光客向けの郷土料理メニューは下の画像で示したようにどの店も大体同じ内容だ。もちろん食事も旅の楽しみの一つ、せっかくの機会なので翌日からは自分もご当地グルメに少しずつ挑戦してみよう。


メイン道路から外れて暗い路地に入ると、店も無く人通りも少なくてうら寂しい。ただそこでは古城の夜の別の姿を見ることができる。崩れかけたレンガの壁、古い建物のアーチ型の門、それらが灯りに照らされて暗闇に浮かびあがり、まるで大きな彫刻作品のようである。
平遥の一日目はこのようにして終了した・・・。